私のような法華経信仰者は朝晩唱題をするのですが、では一体何回南無妙法蓮華経と唱えればよいのか、最近真剣に考えてみました。結論としては
やれる範囲で「真剣」にやれば良い。数は関係ない。
と思い至りました。日蓮大聖人は「法華経題目抄」で「ただ一回唱えるだけでも成仏できる。」とおっしゃっています。ただ、もちろん真剣に行う必要があると思います。思いのこもった真剣な一回の題目であれば成仏できますが、惰性で義務的に行う題目では百万遍唱えても成仏できないという事だと思います。(決して単純に一回唱えるだけで良いと言う事ではありません。たくさんやれるならやるに越した事はありません。誤解無き様に。)
本当に忙しくて時間が無く、長時間唱題できない事もあります。健康上の理由でできない人もいます。そんな時そんな人はただ一遍だけでも良い、声に出す事ができないならば心の中でつぶやくだけでも良い、要は
数をこなすのではなく思いをこめる事が大事
法華経法師品第十には、「法華経のわずか一部分でも覚えて信じて喜ぶ人は成仏できる。」とあります。仏道修行は形式的な数や量ではないのです。言わば
信心の強さです。
またこの法師品には、お釈迦様の亡くなった後にこの法華経の一部分でも覚えて喜ぶ人は、本当は仏と生まれて最高の幸福な人生を送る事ができるのに、慈悲の心から苦しむ人々を救うためその幸福を捨てて、あえてその苦しむ人々の世界に生まれる、仏の使いである、とあります。
今、法華経を信じる事ができた方は
本当は仏であり、仏の使いです。
苦しむ人々を救うためにその苦しみの世界にあえて飛び込んで来たのです。貧困の苦しみは貧困を味わなければわかりません。病人の苦しみは病人でなければわかりません。今の苦しみの世界にあなたがいるのはその苦しみを理解し、その同じ苦しみを持つ人々を救うために、自ら望んで生まれてきたのです。なんと慈悲深く尊い存在でしょうか。
まさに「仏の使い」です。
お釈迦様は「一切皆苦」と言って、基本的にこの世は苦しみで満ちている、苦の世界であると言っています。人はみな何らかの苦しみを持って生きています。苦の無い人はいません。法華経を信じる事ができた方はそれぞれの苦の世界で、法華経を信仰する事で本来の姿である仏となり、つまり仏性仏界の生命を体現し、自己と他者、人々を救っていくのです。